堀井雄二さんはドラゴンクエストの生みの親でいまもなおみんなに愛されるゲームを作り続けています!
堀井雄二さんの生み出すドラゴンクエストは子供から大人までたくさんの人にプレイされて皆さんは知っていると思いますが、堀井雄二さんはどんな人物なのでしょうか!?
そんな疑問にお答えして今回は堀井雄二さんのwiki経歴と学歴について書いていきます!
またあのドラクエを生み出したエピソードと鳥山明との関係も紹介していきます!
それではいきましょう!
【ドラクエの生みの親】堀井雄二のwiki風プロフィール
氏名:堀井雄二 ほりい ゆうじ
生年月日:1954年1月6日 70歳
出身:日本、兵庫県洲本市
職業:ゲームデザイナー
代表作:「ドラゴンクエストシリーズ」
堀井雄二の経歴 生まれから中学生時代まで
堀井雄二さんは兵庫県洲本市出身です。
堀井雄二さんの実家が淡路島の洲本市街地で堀井ガラス店というガラス屋を営んでいました。
堀井雄二さんは幼少時代から漫画が好きでよく家の裏にある貸本屋で漫画ばかり見ていました!
またよく山、川、海でも遊びに出かけていたそうでどこでも10分ぐらいでいけていたので海で泳いで遊ぶことも多くいろんな経験を子どもの頃からされていました。
堀井雄二さんは幼少時は弁護士志望でしたが、中学生時代に学校で描いた絵が予想以上に周りの人から賞賛を受け漫画家を目指すことになります。
堀井雄二の学歴 兵庫県洲本高等学校
堀井雄二さんの出身高校は兵庫県洲本高等学校です。
偏差値 57(難関)
堀井雄二の高校生時代エピソード
堀井雄二さんの高校時代は多才で水泳部、ブラスバンド部(サックス)、生物部、茶道部を掛け持ちしており、この時の堀井雄二さんは本気で漫画家を目指していました。
また意外にも夜更かしが多くなり遅刻の常習犯だったそうです!
かなり意外でびっくりしました!
高校生二年の時には出席日数210日のうち197日遅刻するぐらい遅刻魔でした!
また高校3年生の夏休みに今では現存する4台週刊少年誌(週刊少年ジャンプ、週刊少年サンデー、週刊少年マガジン、週刊少年チャンピオン)すべてに連載経験を持つ唯一の漫画家である永井豪さんのアシスタント入りしようと原稿を持ち込み志願するも断られてしまいます。
このことから「とりあえず大学に行くか」と堀井雄二さんのやる気スイッチが入り大学の受験勉強が始まりました!
堀井雄二の学歴 早稲田大学第一文学部
堀井雄二さんの出身大学は早稲田大学第一文学部です!
偏差値 77(超難関)
堀井雄二の大学生時代
堀井雄二さんは当時数学と国語が得意でしたので受験勉強は英語だけだったとインタビューでも話していました!
しかし驚くべきことは堀井雄二さんは早稲田大学だけでなく明治大学、法政大学も同時にストレートに受かっておりすごく賢い方だったみたいですね!
堀井雄二さんが大学一年生の時に学生運動も激しかった時期だったこともあり、川口大三郎事件が起き学校がロックアウトし1年間休校になってしまいました。
このことから入学してすぐに大学に行かなくてもよくなってしまったので、
当時所属していた漫画研究会の部室に顔を出し部室で麻雀をして麻雀が終わったら帰るというゆるゆるの学生生活を送っていました。
ここから大学3年生の頃付近の各大学に漫画研究会の連合ができ堀井雄二さんは交流を深めていきます!
中には「桃太郎電鉄」シリーズも手掛けたゲームクリエーターのさくまあきらさんまでいたとか!
さくまさんは立教大の漫画研究会に所属しておりこの頃からの知り合いだったそうです!
つながりがすごいですよね!みんなが知っているゲームクリエーターの人たちがこんなところでつながっていたとは、、、
また1974年頃には「早稲田の漫研のことを書いてほしい」というオファーをもらい、1975年に仲間(えびなみつるさんと柳沢健二さん)と一緒に2冊書籍を執筆!
このころからフリーライターとしての活動を始めています。
ちなみに堀井雄二さんは当時125ccのバイクに乗っていましたが、1976年のバイク事故をされてしまい左折車に巻き込まれてガードレールに激突!
内臓破裂の重症でしたがなんとか一命をとりとめ3か月入院…
大変な事故だったそうですが堀井雄二さんの中ではもう笑い話になっていますね!
堀井雄二の経歴 大学卒業後
堀井雄二さんは1978年に大学卒業後、生活が十分に成り立っていたと理由でフリーライターとして活動を再開していきます!
また1980年から『月刊OUT』(みのり書房)で読者投稿コーナーの一つを担当し、月刊OUTの投稿者管理のためにパソコンの導入を図ったが、パソコンゲームにはまり、のちに自作をはじめてしまいます。
1982年から『月刊OUT』で担当の読者投稿コーナーを「ゆう坊のでたとこまかせ」にリニューアルし、人気を博し、鳥嶋さんからエニックスの第1回ゲーム・ホビープログラムコンテストの取材を依頼されます
堀井雄二さんはそのことを機に、自らもPC-6001で自作した『ラブマッチテニス』を応募し、入選プログラム賞を取る。コンテストの授賞式で森田和郎や中村光一と知り合っていきます!
すごいですよね!
1983年にパソコンのアドベンチャーゲーム『ポートピア連続殺人事件』を手がけ、ゲーム界に名を知られるようになります。
そこから堀井雄二さんはこの年、エニックスは中村光一さんらを、アメリカで開催されたApple関連の見本市「アップルフェスト」に派遣しています。
ここで本場のRPGと出会ったことが「ドラゴンクエスト」を開発する契機となりました!
堀井雄二と鳥山明との関係
堀井雄二さんは1978年頃にさくまさんの紹介で鳥山明さんを担当する「週刊少年ジャンプ」の編集者である鳥嶋和彦と知り合い、ゲーム仲間になってからは毎晩遊びまわっていました!
仲良くなっていた鳥嶋さんと堀井雄二さんはゲームのRPGを作ってみたいという話になっていき、有名ゲームクリエイターの中村光一さんも一緒に作ろうと話が膨らんでいきました!
さらにはここで鳥山明さんもゲームを作りたがっているという噂が流れたことが出会いのきっかけだそうです!
最終的に鳥山明さんにこのことを確認すると「いやそんなこと言ってないよ」といわれたそうですが、、、(笑)
そして、本当は最終的に鳥嶋さん鳥山明さんに「鳥山君もゲームが好きなら、、、」といってドラクエの作成チームに引き込んだそうです!
鳥嶋さんは策士ですね(笑)
「ドラゴンクエスト」の誕生
堀井雄二さんはドラゴンクエストの作成は当初140日間かかったそうです。
実際に設計図は堀井雄二さん、プログラムは中村光一さん、絵は鳥山明さん、音楽はすぎやま先生という豪華メンバー作成!
実は関西弁のほうがインパクトがあると考えあの有名な呪文たちは関西弁の擬音でできています!
例えば「メラ」「バギ」「ギラ」などですね!
そして絵は鳥山さんが書きモンスターの名前はしっかり堀井雄二さんが決めていますのでこの数を決めていくのは骨が折れますがキャラクターに愛情がわきますね!
名誉市民に
2008年9月24日、ふるさと納税の制度を利用して洲本市に950万円を寄付している。以降も毎年洲本市にふるさと納税を行い、合計1億円を寄付。
お金が全てではないですがかなり洲本市に対する愛がありますね!
堀井雄二さんは2010年9月に行なわれた東京ゲームショウ2010の「日本ゲーム大賞」にて「経済産業大臣賞」を受賞しました。
2017年12月20日、洲本市議会は堀井雄二さんを洲本名誉市民に選定することに同意し、翌2018年2月11日、正式に名誉市民号が授与された。
2022年3月24日、第22回ゲーム・デベロッパーズ・チョイス・アワードの個人賞「Lifetime Achievement Award」を受賞しました!
堀井雄二のwiki経歴と学歴!あのドラクエを生み出したエピソードと鳥山明との関係は!?まとめ
いかがでしたでしょうか!これからもどんどん出てくるドラゴンクエストの生みの親堀井雄二さんを知ることでドラクエをもっと楽しめるかもしれませんね!
今度も新しいドラクエのリメイクも続々と出てくるので乞うご期待です!
今後も堀井雄二さんを応援していきたいですね!
以上TAKAでした!
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